つぶろぐ- KOYAMA tweet Logger -

あらゆる各種SNSに散っ……投稿したつぶやきを、まとめたりしてピックアップ掲載。夥しいポストをみなくてもこれをみればもう安心✌️

高橋コヤマ

最近このミケさんのぽってり具合のささやき鳴きかわいすぎてどうにかなりそうになってる

高橋コヤマ

あとで振り返ったとき綺麗に包むことはあるけど、作品を創る「推進力」は間違いなくガチめにくやしさとか復讐とかが原動力ではある
ぜんぜん綺麗な感情ではない ガチで

まあそういった経緯のおかげで、こういう反骨気風でとりあえずまとまったものには疑いを覚え、問いを見出し、判子を押されたようなモノなどくそくらえで自分の世界を出す人間にはなったとは思うんですよ
それはね、誇りだと思っています 私の

高橋コヤマ

小学生の時に夏に書いた作文で、「相応しくない」ものは先生に「添削」されて、判子を押されたような作文になっていたことをずっと憶えている
そういう土壌から生えてきてるので、なんか変な作品だなぁと自分でも思いますよ

こうの史代「なぞなぞさん」、本当にこう相手の望む文脈だけ切り取られてあとは捨てられる、「整えられる」無力さをものすごい思い出して、共感と一緒に苦しさを思い出して涙がにじむんですよな

高橋コヤマ

私は、広島に生まれた人で広島をえがいていて、こんなに近い考えの人がいたことがなかったから涙が出るほどうれしかったんですよ

高橋コヤマ

広島で原爆もの、そもそも広島を描くということならそういったメッセージ性は〈つけてしかるべき〉であり、つけないことはけしからんみたいな空気があるのを私はあまり許せないでいる
だからたぶん、こうのさんの作品は好きなんだろうなと思ったんですよね(彼女もエッセイで似たようなことを書いていて、本当に私は嬉しくなった)

せっかくなのでちょっと引用しておく
(広島の原爆を題材にした漫画を描いたことで)出版後、反響が大きいのに驚いて、時として「戦争もの」さらに「反戦もの」として捉えられた事にもっと驚いた。というのも、わたしが描いたのは、原爆特有の、戦後の後遺症の部分だけだったからだ。
原爆ものと戦争ものは、重なる部分はあるが別種のものだとわたしは思っている。
まず、周囲の望む「受容の場」が違う。戦争ものはその他の漫画とそう変わらない。しかし原爆ものとなると急に、この作品を「世界に」届ける届けないで大騒ぎになる(後略)
つづき
(中略)
見聞きした戦争ものは大抵こんな結論に導かれる。「戦争で死んだ人達はこんなにかわいそうでした。戦争は愛している人やものを奪います。世界の人はみんな等しく素晴らしいのだから、だれ一人、戦争なんかで死なせてはいけないね」。それに対しわたし達は「不謹慎」という言葉に縛られて質問もせず、空気を読んで「わたしたちは恵まれています。こんなことは二度とあってはならないと思いました」と決まった答えを不自由になぞらされる事になる。しかし、残念ながら、この結論の魅力をそっくりそのまま下の世代に伝え続けるほどには、わたしはこれを理解出来ていない気がする。

(こうの史代『平凡倶楽部』「戦争を描くという事」)

このへん強くのこってるとこなんですけど、やっぱこうのさんのエッセイだと「戦争を描くという事」のぜんたいが一番好き ホント機会があったら読んでみてそ

高橋コヤマ

擬人化実装のハードルを下げたコヤマ、やりたい放題!!!!!

高橋コヤマ

現在の情勢と表現、今後の作品について(思考メモ)

戦争責任論の本を軽く読み返したけど(眺める程度)、私たちはなんというか、だらだらと責任から逃れ続けてついにそこに目を伏せ続けた政治に同調して今現在この時まで来てしまったんだな
と虚しい気持ちに少しなりました
私が今の短編を描いているのはここからの眼差しに近かったけれど、時代はこの眼差しを向ける部分から幾分─けして良くはない方に─進んでしまったのだな
だから筆が惑うのだなと、少し思案した次第です

それこそ私が後回しにしている戦中期、戦後復興期……どれも、前提は「戦争責任論への余地と余白のある時代」だからこそできたことだと思っていて、その点には激しい後悔があります 正直
これからえがく作品が恣意的に用いられないこと、読者のコントロールはできないけれど受容には一定のハードルを求めたいこと
どうやって表現しようかまだ悩んでいます
私がこの作品を描き始めた2年前は、「昔の残酷で難しい話は避けたい」という反応が少なくなかったと思います
今は、密接になりつつあるからこそ避けられたり、むしろ〈読み手の文脈に沿った注目〉によって読まれたりしてるかなぁ……と思います。2年であまりに変わったなぁ……もっと早くできればよかった……ってまだ思っています
どうしようもないので、それらを加味しつつ2年前にスタートを切った私の構想のままにうまく進めていきたいなぁという感じです できるのかなあ

表現には、物語には、良くも悪くも力があるんですよ
それはどのようにも作用します
こういった不安定な時代において、私の作品のような明確な肯定も賛美もむしろ反対も否定もないものは、好きな文脈に乗ってしまう気がする 前よりもずっと

かといって、明確に作品にそういった片方のメッセージを強く含ませたくないから困っているのですよね
もちろん結論としては、あんなもの最悪だったよ……だったけれど、果たしてこの先数年後はどうなっているでしょう?
そのたびに、自分の作品の所在に悩みます
こればかりは表現者として、プロでもアマでも変わらないのです
「誰かに見せる」、その〈誰か〉は選べないです
そういった点を熟慮していくと、恐らくこれからの作品(後回しにしてきた作品とも言う)はなかなかSNSにはあげられないと思います。webサイトは頑張って維持していきたいので、間口を絞りながら当面は創作活動を続けていきたいです
※それと、作品をどう表現するかという悩みは別なのです、複雑なことに……畳む


別に暗い気持ちにはなってないです!!
むしろ、どうやっていこうかなぁ……と思うし、そうなる前に仕上げたかった後悔が強いですなあ